- 内容:Contents
- プレゼンター:Presenter
- テキスト:Transcript
「病があっても自分らしく生きること地域で支える」
様々な体験をし、考えながら生きることで、一人ひとりの特別な人生が編まれていく・・・・。 医療が患者の人生を支配していた時代は終わり、良い意味で医療は変わってきていると感じる。 『病があっても自分らしく生きること地域で支える』 治癒が難しい人たちへの地域包括ケアシステムが整備されつつある中で、中山さんが自分のこれまでの経験を踏まえ、地域包括ケアシステムの主役である住民一人ひとりの訴えたいこととは?
中山康子
所照井在宅緩和クリニック
「病があっても自分らしく生きること地域で支える」
中山と申します。今日、私は看護師として恥ずかしげも無く自分の人生を振り返り、その中 でこれからこの仙台でしたい事を皆さんにお伝えできればというふうに思って参りました。
私は今 50 ウン歳なんですけれども、50 数年生きると初めて「自分の人生を帯の様に感じる」というふうになってきました。若い時はその時その時を精一杯に生き続けるということに限局してたと思うんですけども、やはり半世紀、人って生きてみるとこれまでの自分の人生を、特に自分の意思決定が自分でできるようになった年代から、要するに 20 代からどんな風に自分が生きていくのかっていうのは、まさに自分らしさということに繋がっていくと思います。
この写真は奥入瀬川なんですけれども、人生のなかではもちろん自分で工夫をしてチャレンジしてやっていけることと、それからちょっと頑張ってもやっぱりあの自分の力では変えられないことあります。ですけれども、まあそんな中で自分がどんなふうに生きていくのかっていうことはとても大切なことだというふうに、今看護師としてそして一人の人間として思っております。
私自身の看護師になってからの体験なんですけれども、すこしあの年代が古くなるんですが、1980 年代に東北大学病院で看護師としての人生をスタートさせました。
この時代の病院でのあり方だったんですけれども、基本的には癌の患者さん、たとえ社会的に地位が高い方で知識力が沢山おありになっても、基本的にはご本人には癌は告げないというような体制が、それは東北だけではなく日本全体でそういう暗黙のル-ルみたいなものがまかり通っていた時代がございます。
その時に初めて 20 代でナースになって、がんの患者さんに対して大学病院で、ずーっとまあナースとしてお世話をさせていただいたんですが、やはり患者さんは治療している、治療が効いている間は良いんですけれども、治療の反応が悪くなってくると徐々にご自分の体力が落ちてくるという時期が参ります。
それまで患者さんと良い関係を作っていた看護師の一人として、亡くなる前って人間って医師からあなたの病気は大丈夫ですって言われていても、自分の身体で自分のやはり死というものを感じるときが来るんですね。そういったときに、初めて患者さんがおかしいということに気がついて、そしてナースの私の方を見て何か隠しているんじゃないかとか聞かれる方もいらっしゃったし、黙って恨めしそうな目で私の顔を見ておられた、そういった患者さんもいらっしゃいます。
30 年前の患者さんでいらっしゃるんだけれども、今でもやはりうらめしそうに、何で俺は良くならないんだっていうような思いで、私を見て下さっていた患者さんのことは未だに忘れることができません。
まあ、あのそういった体験を大学病院に 2 年させて頂いて、ちょうどその時期、欧米からホスピスという新しい活動がその治らない病気の患者さんにどう接していったらいいのか、どう支えていくことができるのか、その模索の活動が日本にも徐々に入ってきました。
20 代で、実際にじゃ治らない病気の患者さんにどんなふうに医療従事者としてサポートできるのかなということ、それを自分で得たくて、大阪で日本で二つ目にできたホスピスというところが淀川キリス教病院にありました。そこに自分から進んで就職をさせてもらって、
6 年間そこで働かせてもらって、こんなふうに支えて行く方法が実はあったんだっていうこと、それに気づかさせて頂いたのがこの 20 代でした。
30 代は実はそのホスピスで働いていると、その病棟の中で痛みを取ったりだとか、食事が少しでも食べられるように栄養士さんに工夫してもらったりだとか、まあ色々なサポートを受けるんですが、患者さんの中では何人か家に帰りたいとおっしゃる患者さんがやはり出てきたわけなんですね。
それで、家にお連れする活動をドクターと一緒にボランティアでやっていると、家に帰ると食欲のなかった患者さんが少し食事が食べられるようになったり、笑顔が戻ったり夜眠れるようになったり、そんなことが目の前で起こりました
その時に、今度病棟で自分がつかんだいろいろな技術・知識、これを今度、在宅で過ごしたい患者さんのために自分の力を使いたいなと思って、30 代は実は社会人入学だったんですが、4 年間もう一回大学に行き直して、地域看護というところでライセンスを取って、在宅緩和ケアということで埼玉県の方で、癌の患者さんを専門に在宅医療部の職員として活動しました。30 代は 2 年間だけだったんですが緩和ケアの認定看護師の教員などもさせてもらっています。
40 代、10 年ちょっと前なんですけれどもこの在宅で、そのがん患者さんの在宅ケアに携っていると、また新たな問題が起こりました。
何かと申し上げると、おうちでもちろん過ごせることは良かったんだけれどもでも、体力がない、或いは途中で症状がでるかもしれない患者さんは、自分から進んでどこかに出かけるということができなかったんですね。安心して出かける場所がない、そんな在宅ケアが今後日本で広がってくると「閉じこもりは在宅ケア」になるになるんじゃないかというふうに私は危惧いたしました。
社会を見渡すと、寝たきり高齢者の方々あるいは虚弱高齢者の方々の福祉サービスは沢山あったんですね。デイサービスあるいはいろんなホームだと色々なものがございましたが、今、私がテーマにさせてもらっているその若い年代で癌の患者さんだとか難病の患者さんそんな方々が出かけられる場所という物がなかったんですね。
これは日本の問題だと思って、実は 40 代、仙台に戻ってきてNPOを立ち上げて「在宅緩和ケア支援センター 虹」という活動をさせて頂き 10 年継続いたしました。
この虹の活動は、お手本となったのはイギリスのパリアティブ・デイケアPalliative Day Care といわれている、その、イギリスの場合にはホスピスの敷地の中にデイサービスといって皆 さんご存じの様に昼間だけ集うそういう場所があのどんどんイギリスで増えてたんですね。
それを 2000 年に見学にいかせていただいて、本当に 10 人くらいの方々が集ってお昼ごはんも食べたりしながらリハビリをしたり作業療法したり、あるいはおしゃべりをしたりときには若い患者さんが 6 人ぐらい集ってしゃべりこんでいるんですね、円座になって。
「あのグループは何をしているんですか?」と伺うと、ヤングアダルトの人たちだからあの人たちは、やっぱり癌になったときに持っている問題がご高齢の方と違うんだと。だから若い人たち同士で集まって自分の仕事をどうしたらいいのか、あるいは子どもにどんな風に自分のことを伝えていったら良いのか、そんな事をグループで話あっているんだよっていう風におしえて頂きました。
やっぱりそういう活動日本でも必要だねって、2000 年のとき強く思いました。それで、仙台市太白区に一軒家を借りて、そして、介護保険のデイサービスの仕組みを使って癌や難病の方々で自宅で暮らしていらっしゃる方の昼間集える場所というものをつくって、2004 年から 10 年させて頂きました。
最初オープンする前に皆さんから危惧されたのは、そんな治らない病気の人が 10 人も集って何をするの、そんな暗い場所になるんじゃないのと皆さんにとても心配されましたが、少し、一枚だけ写真をお持ちしましたけれども、とっても暖かい場所になりました。
これは、なぜそうなったかっていうと、やはりその活動の理念で、利用者さん同士も支え合うし、利用者さんとスタッフも支え合う、お互いに支え合って生きていくんだよっていうこと、たとえ病があって命が短くても短い時間でもその人にとってはとても大事な人生なんだということ、そのことをスタッフの方々ボランティアの方々に理解していただいて、皆その理念に沿って日々ケアをして下さったからこういう場になったと思っています。
私の結論としては「進行性の病があっても人は支え合って大切にどれだけの時間が残っていようと生きていける」ということを、これは自分の活動から確信をもって今言えることだと思っています。
それから がんの患者さんの相談っていうことも、今はとってもメジャーになりましたけれども、10 数年前はほとんど相談の場所っていうものが専門的にはありませんでした。それで、NPOで癌の相談ということもさせて頂きました。その時に相談にのっていてとてもつらいなと私自身思ったこと、ひとつはその病気ではなく社会が癌の患者さんを排除したり生きにくくしているという現実があるということに患者さんの言葉を聞いていて気がつきました。
できるだけこういう工夫をして変えられること、それは変えていきたいというのが私の生き方です。なので、これから社会の中で癌の患者さんがもっと、癌という病気になったときに理解されるように、そして癌という病気、その他の神経難病でも原因がわかっていない病気も沢山ございます。何で癌になるのかわからないっていうものも沢山ありますよね。なので、そういった方々が理解をするというようなそういったことができるように願っています。
それから患者さんの中で自分の人生は、自分で考えることがちょっと苦手な方もいらっしゃるんですね。やはり私たちは自分の人生には自分で責任を持つということ、これも考える機会を社会の中で作る必要があると思っています。
最後、私の今からの願いです。仙台市の皆さん、「地域包括ケア」を伺ったことがありますか?名前を聞いた事があると思います。これから私は残りの 10 年、地域保活ケアの充実に務めたいと思っております。
地域包括ケアというのは生活の中で安全に安心で健康的な生活ができるように、生活しているその場の中にケアの仕組みが作られるということだと思います。今、仙台市では認知症の地域包括ケアの取り組みが進んでおりますが、今後、私は認知症のケア体制では緩和ケアはちょっと難しいかなと思っている部分があるので認知症のケア体制と緩和ケアのケア体制、それから若い方々の為の神経難病の方々のケア体制、3 つぐらいのグループでケア体制を作っていく必要があるんじゃないかと、行政の方々には問いかけています。
仙台市というのは政令指定都市で 100 万も人口がおりますので、各区ごとに、例えば緩和ケアのケア体制が作られていく、それが私の理想です。
あと 2 つなのですが、作ったケア体制をしっかりと市民に毎年積極的に伝えるということが大事なんですね。患者さんのご相談をうけてそのサービスをほとんど知らないという方が多いです。だけど、知らなければ自分の人生を作っていく情報を持っていないということでもとてもハンディが高くなります。
健康なときから、こんな方法があるんだというようなことを知っていえれば、万が一っていう時には力になります。やはり仕組みをしっかりと市民に伝えるということ、市民も自分のQOLに大きく関わることなんだと、地域包括ケアは、そういう認識を持って欲しいと思います。
それからこの後多分カフェの色々な活動なんかもプレゼンターのかたが紹介されると思いますが、その自分らしく生きるって、この病気を持ちながら、自分らしく生きるってどういうことって、わかんなくなってしまうことって、とてもつらいことなのですよね。なので、自分らしく生きるということ、それを、ちょっとおこがましいですけれども市民教育という形で、日頃からこの地域の中で考える機会をつくっていく、そういうことももこの地域包括ケアの中で行われることがこれから必要ではないかというふうに一看護師として思っております。
これから私は、ここを頑張りたいと思っておりますので、いろんなところで是非一緒に活動していただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
テキスト化:嶋田彰夫 dictated by akio shimada