田坂広志

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生命論パラダイムの時代 − 21世紀、人類の文明は、どこに向かうか −

MED Japan 2018 特別講演

田坂広志 TASAKA HIROSHI

多摩大学大学院 教授
田坂塾 塾長
シンクタンク・ソフィアバンク 代表
世界賢人会議The Club of Budapest日本代表

東京大学大学院修了。工学博士(原子力工学)。2003年から、社会起業家フォーラム代表として、21世紀における資本主義の進化のビジョンを語り、社会起業家の育成と支援を通じて社会の変革に取り組んでいる。2008年、ダボス会議を主催する世界経済フォーラムのGlobal Agenda Councilのメンバーに就任。2011年、東日本大震災に伴い内閣官房参与に就任。2013年、思想、ビジョン、志、戦略、戦術、技術、人間力という「7つの知性」を学び、「21世紀の変革リーダー」への成長をめざす場、田坂塾を開塾。現在、全国4500名の塾生とともに研鑽を続けている。

生命論パラダイムの時代 − 21世紀、人類の文明は、どこに向かうか −

ただいまご紹介いただきました田坂です。

今日は先ほどから、色んな方のプレゼンを拝見してて、むしろ私の話よりも、この素晴らしい方々の話を、私も一人の聴衆として伺いたいと思うばかりなんですけれども、主催者からのご依頼がありましたので、今日この「生命論パラダイムの時代」というテーマで、少しばかり皆さんの貴重な人生の時間を預かりして、お話を申し上げたいと思います。

今日、本題に入る前に、この「いのちの場」からというテーマ、言うまでもなく素晴らしいテーマを掲げていらっしゃるんですけれども、そもそもこういう命ということを掲げ、しかもですね、おそらく医療関係の方もたくさんいらっしゃるこの場で、今更なぜ生命論なのかということですね、あえて、二つのことを申し上げたいと思います。

おそらく皆さんが、つくづくお分かりになっていることと思うんですけれども、

「命というものが、命として扱われていない」

そのことを、皆さんが実は一番深くお感じになられてるんじゃないでしょうか。

だからこそ、先ほどからの話、なんか非常に深いところに流れるテーマは、命を命として扱おうではないかと。

裏返して言えば、今世の中見て、私もつい、おおっと思ってしまうんですけれども、例えば、臓器移植。

この臓器移植というテーマ一つでも、もちろん、そういう技術が発達することそのものは、後ほど、その意味は申し上げますけれども、決して悪いことではないんですけれども、どこか臓器移植ということ一つでも、あたかも、人間そして命というものを、機械のように感じてしまう我々がいますね。

この辺りを非常に鋭く文学にされたのが、言うまでもなくカズオ・イシグロさん。
昨年、ノーベル賞っていうあの文学賞ですか。

まさにその臓器移植というものが、ドンドン技術として発達したときに何が起こるのか。

あそこで起こるクローン人間のようなことが現実になるかどうかは、色んな議論があるとしても、簡単に私のクローンがいるから肝臓があるからただのクローンから肝臓持ってくればいいんだ。

車ならですね、故障したからあの中古車から部品持ってきて入れ替えるということは、これは当然です。
これ機械ですから、でもあたかも無意識にそういう感覚になってしまう。

実は、命というものを命として見つめるよりも、無意識に機械のように見てしまうというこの現代。

例えば遺伝子工学がそうですね。
これも発達することそのものは、いろんな病気の治療にも役立つ面もあるでしょうから、決して反対ではないんですけれども、この遺伝子工学そのものも、いつの間にか気が付けば、ちょっと遺伝子を操作すれば、非常に優秀な人間が生まれてくるんだ。

で、その裏返しで何が起こるかと、私はふと想像してしまうんですけれども、かつてナチズムの時代のような、人間を遺伝子でパッと見て、この人はかなり危ない遺伝子だ、この人は非常に優良な遺伝子たと言って、人間を分けてしまうことすら起こりかねない。

これも車ならですね、性能の良い車とそうではない車と分けても宜しいかと思うんですけれども、この怖さがある。

さらに言えば、今流行りの人工知能

人工知能ということ一つでも、例えば、今流行りのシンギュラリティですか。

あのシンギュラリティということを、かなり技術系の方はワクワクして語るようですけれども、カーツワイルの論によれば、いつの日か、人間は不死、死ぬことを越えていける。

例えば、我々の脳の中にある色んな情報も全て、人工知能もしくは何かのコンピューターの中に移植できるみたいな事を、平気で語られるんですけれども、果たして、人間の脳とか心とか精神とか魂、今日もありましたね、魂というテーマ。

これがそう簡単に機械に本当に移せるもんなんだろうかという、こういう少し慎重な深みのある議論が失われているんですね。

どれも、現代の医療、そして科学技術の最先端で起こっていること。

もう一度申し上げますが、第一点は、この命ということ。

(いのちの場から、社会を良くする)

なぜ、今改めて、「生命論」ということを申し上げるかといえば、「命ということが、命として見つめられていない」。

無意識にも意識的にも、機械のようなものとして見つめてしまう、この、なぜ文化文明が生まれてきているのかということ、それをこの後、少しばかり申し上げたいと思うんです。

もう一つは、やはり、先ほどの午後のセッションのテーマもそうだったと思うんですけど、深いところでですね、例えば、家庭、職場、会社、例えば、コミュニティ、社会、こうしたものそのものが、命を持っているんだ。

この視点というものが全く無いんですね。

これは、ちょっと難しい表現ですから、後ほど、ゆっくり分かりやすく申し上げたいと思いますけれども、実はこれ、今申し上げたようなものも全て、命を持った生き物ですね。

その意味が分かるかどうかが、実は21世紀の大きな分かれ道ですね。

例えば、会社の経営をされてる方、何人かいらっしゃると思うんですけれども、まあ何年も前に流行ったあの言葉って一体どこ行ったんですかね。

「企業改革はリエンジニアリングだよ」

経営コンサルタントが、嬉しそうによく言ってたんですね。
本当に性能の良い会社、利益の上がる会社にするためには、リエンジニアリング。

企業というものも、あたかも機械のようなものと見立てて、リエンジニアリングすれば素晴らしい性能を発揮する会社になるんだなんてことは、平気で言われたんですね。

これはね、それ以外の例も、この後申し上げたいと思いますけれども、残念ながら、我々が生きているこの社会そのものが、本当は素晴らしい命を持った何かである。

そのことを我々分かっていない。

それが故に、今日あえて、あの秋山さんが、そして主催者の方々が、私のような者にとにかくこの「生命論」について語ってくれというご依頼があったんだろうと思うんですね。

最初に非常に重要な論点だけ申し上げておきますと、命というものの捉え方。

一点目が、命を命として見つめていない、扱っていない、その現代の風潮というのは何なんだろうか。
そして、我々、ふと気が付くと、家庭も職場も企業も社会もコミュニティも、全て、実は命を守った有機的な生命体なんだと。

ですから先ほどからのプレゼンでも、やはり、つながりということを話題にしたり、社会全体としての大きな動きの中で健康というものを支えていこうという議論が出てくるわけですね。

したがって、今日ここにいらっしゃる方々は、例外なくこの生命論がおわかりになっている方と思いますが、皆さんご自身が、これからまさにその生命論的なモノの見方、考え方を、ご自身の日々の目の前にある使命の仕事、その仕事を通じて世の中に伝えていかれる方々であるからこそ、改めて、この「生命論パラダイム」ということを申し上げてみたいと思うんですね。

まず、その「生命論パラダイム」ということを申し上げる上で、説明の必要もないと思いますが、なぜ生命論という言葉かといえば、言うまでもなく対極にある言葉があるんですね。

これが「機械論パラダイム」という言葉ですね。

たまたま「生命論パラダイムの時代」というのを93年に編集した人間でもありますけれども、実は、今この現代、20世紀から21世紀に向かって、もう見事なほどの「機械論パラダイム」オンパレードのような時代になっているんですね。

これが、もう21世紀、「生命論パラダイム」の時代に回帰していくべきだということを申し上げたいんですね。

ただ、何故そんなことを申し上げるかというのは、少しばかり時間がありますので、そもそも副題である、この、21世紀人類の文明はどこに向かうのかというスケールで申し上げるとですね。
実は、この人類の文明社会というものがどこに向かうのかということ、誰にとっても興味がある非常に大切なテーマですね。

ただですね、これを簡単に「皆さん5年後にはこうなります、10年後にはこうなります」ということは申し上げられない。

つまり「予測」ということはなかなかできない。

それが、現実の我々の生きてる世界ですね。

ただし「予測」はできないけれども、「予見」はできる。

これは言葉の定義の問題ではあるんですけれども、「予見」とは何か。

例えば、皆さん砂場に行って、砂山を勝手に色々地形を作ってみる、上から水をジョウロでずっと流す。
その瞬間に、どの砂筋を、どのくらいの流量が、どれくらいの速さで流れていくかを予測しろと言われても無理ですね。

だけども「予見」はできますね。

簡単な法則がありますから。

「水は低きに流れる」
必ず、低い方向に流れていく。

こればかりは物の理ですから過ちようがない。

その意味において、今、人類のこの歴史、見つめてみると、これからどの方向に向かうかという「予見」はできるんですね。

その「予見」をするための方法というのは、何か特殊な科学的な手法なり統計的な手法では全くない。

実は大切なのは、未来を予見する哲学というものが、実は人類昔からあるんですね。

ただ、その研究をされている方も、そのことに気がついてない方が多いんですけれども、その哲学とは何か。

弁証法です。

英語で言えば dialectic ですか、この弁証法という哲学。

私も若い頃読んで、ヘーゲル弁証法などを勉強すると難しくて、ほとんど参考書、その本を投げ出したような時代もありましたけれども、でもよく考えてみると、そのエッセンスの部分は非常に見事なことを言ってるんですね。

ヘーゲル弁証法っていうのは、もちろん、たまたまヘーゲルと言いましたけれども、ものを深く考える哲学者は、みんな同じところに到達しています。
ヘーゲルだけでない、マルクスもそうですね。
ジャンポール・サルトルもそうですか。

さらには、日本でも、もちろん、あの禅仏教っていうのが、まさにこの弁証法的な捉え方をしています。
西田哲学、西田幾多郎の哲学もそうですね。

従ってヘーゲルだけの専売特許ではないですが、とりあえずヘーゲルなどを引用しながら、非常にわかりやすく申し上げたいと思います。
間違っても今日の帰りに書店に行ってヘーゲルの本を買われないように。
おそらく、30分くらいで読むのを諦められると思うので。

大切なことは、どんだけ膨大な本を読んだかよりも、本質をどれだけ掴んでるか、それだけです。
これ非常に大切なことです。

情報が溢れている時代に、「要するにこういうことではないのか」という、この本質を把握する思考こそが、極めて大切な社会を変えていくための我々の「知のあり方」だと思います。

そのことを申し上げて、もう簡単に弁証法、「よう、ここまで簡単に」と言われるかも知れませんけど、二つのことだけ覚えていただければ、未来が相当「予見」できます。

一番目、ヘーゲル弁証法の第一の法則。

事物の螺旋的発展の法則。

この言葉だけでも十分難しいですけど、わかりやすく言えば、世の中の進歩、発展、変化、進化、これは全て螺旋階段を登るようにして起こるという法則です。

皆さん、なんとなく、我々無意識にこの右肩上がり一直線みたいな変化をイメージしますね。

でも実は、そうではなくて、世の中の変化というのは、あたかも螺旋階段を登るようにして起こっていきます。

これはどういうことかと言えば、螺旋階段登る人を想像していただきたいんですが、横から見てると上に登っていきますから進歩発展する。

しかし、上から見てるとぐるっと回ってもとに戻ってきますから、古く懐かしいものが復活します。

ただし、螺旋階段ですから、必ず一段上がっています。

これを非常にわかりやすくいえば、古く懐かしいものが、新たな価値を伴って復活してくる。

これが、弁証法の一番大切なテーゼですね。法則です。

これは、後ほど分かりやすくいくつかの例を挙げてみたいと思いますけれども、もう一つの法則、第2の法則。

対立物の相互浸透の法則、というのがあります。

対立して全く対極にあるように見えるものが、この競争し競合したり対立している中で、だんだん似てくるんです。
相互浸透する。

例えば、この2番目の法則の方から具体例を挙げると、あれがそうですね。

例えば、あの社会主義と資本主義というものも、ある意味では壮大な歴史のスケールでみるとお互いに学びあってますね。

あたかも社会主義だけが一方的に敗れ去ったみたいな論もありますけれども、よく見てると、資本主義が、先に社会主義の中にあった本来の正しい精神、全てが正しかったわけじゃないんですけれども、例えば労働者の権利、国民の権利みたいなものを大切にしようという精神は、先に福祉という形で取り入れた面がありますね。

でも未だに、社会主義国共産主義国でありながら、資本主義の市場原理を導入しようとしている国もある。
このあたりは、まだまだいろんな歴史の紆余曲折ありますけれども、ある意味で、この対立と相互浸透。

例えば、イギリスの労働党と保守党いうのは、もう一昔前は全く違った政策だったんですけれども、トニー・ブレアたりからは、どちらが保守党なのかか分からないような。
トニー・ブレアは、ある意味では、サッチャーの後継者と言われる。
まあ皮肉ですけれども、言われるぐらい似てくる。

別な例を挙げれば、先ほど銀行出身の方の話がありましたけど、銀行と証券会社って、お互いに一昔前は、「何だ銀行屋か証券屋」か、「間接金融か直接金融か」みたいなとこで対立しているように見えましたけれども、今はユニバーサルバンクという事で一つになっていく。

もう一つ挙げれば、先ほど社会起業大学のプレゼンもありましたので、この社会起業家っていうのも実は対立物の相互浸透ですね。

もともと営利企業というものと非営利組織というものがあって、ほとんど交わらなかったんですね。

だけども、ご存知のように、非営利組織が、このままではいけないということで、自分達のその使命のある事業から利益を上げながら
サスティナブルにやっていこうという動きが、社会起業家への動きですね。
NPO社会起業家になっていった例はいくつもあります。

でも一方で、営利企業と言われた、金儲けだけかと言われた企業は、まだちょっと底が浅い感はありますけども、CSR、やっぱり社会貢献をせねばということで、こちらに向かってくる。

まあその結果出てくるのは、理想的には、ソーシャル・エンタープライズと呼ばれる、社会に貢献するもうNPOだ何だと関係ない、全ての企業、それは、有限会社だろうが株式会社だろうが、NPOなのかソーシャルベンチャーだろうが、全てのそういう組織は、社会の貢献を目指して活動するという時代がやってくるだろうというのが、この相互浸透という未来の「予見」から来る、私の未来のビジョンですね。

私も社会起業家育成を十分やってますが、その根本にはそういう考えがあります。

第一番目の螺旋的発展については、もう説明する必要がないくらいなんですけれども、皆さん日々その螺旋的発展を目の前にされてますね。

特にそれが起こったのが、先ほどありました95年からの、先ほどの論だとアフターインターネットですが、インターネット革命起こってから、もう皆さん日々そればっかり見つめてるんじゃないですか。

例えば、皆さん、インターネットの世界で便利なビジネスモデルはって聞かれたらすぐ答えますよね。
ん~オークション、逆オークション、便利だね。
確かに便利です。最先端のビジネスモデルです。

けれどよく考えてみると、オークション、逆オークションって、セリと指値ですよね。

つまり、セリ、指値なんてのは、昔々マーケットが市場(いちば)と呼ばれた時代、市場(しじょう)とより呼ぶよりも市場(いちば)と呼ばれた時代にはどこにもありましたよ。

それが、一回資本主義の発展の中で合理性を求めて、世界一物一価なんてことをやりながら、でもインターネット革命の結果、戻ってきて、今、セリ、指値が、インターネットのネットオークション、それからリバースオークションでどんどんできる。

ただし一段上がっていますから、一昔前はせいぜいこれくらい数百人相手にしかできなかったものが、今や場合によっては数百万人相手でもオークションできますから、ちゃんと一段上がってるんですね。

例えば、皆さん毎日使われている、メールが生まれてくる前には電話を使っていました。

その前はと言われれば、まあね、ご存知ように文(ふみ)ですよ。
手紙書いてましたよ。

私の若い頃って、やっぱ国のお母さんからはがきが届いたとかねえ。
ラブレター、手紙で書くなんてことやってるわけですから、文の文化だった。

この文の文化が、一回電話の文化の中で消えていったように見えて、もう一回復活してきた。

だから、Eメールというわけですね。

そのEメールの文化というのは、じゃあ単なる復活かっていうと、ちゃんと一段上がってますから、一昔前は手紙出して届くまで何日もかかった、コストもずいぶんかかった。
今は、地球の裏側でも一瞬にして、そして何千通でもほとんどコストを掛けずに送れるわけです。

以下同文。

Eラーニングでも何でも全部そうです。

この、古く懐かしいものが新たな価値を伴って復活してくるということが起こってるわけですね。

こまででも、十分もうヘーゲル弁証法、もうこれだけで十分だと思います。

それ以上頑張って勉強される必要もないくらい、この二つの法則だけで世の中見つめてみると色んなことがわかるんですけれども、今日の本題は「生命論パラダイム」。

一体、このヘーゲル弁証法で見ると、何が起こるのかといえば、言うまでもなく「古く懐かしいパラダイムが復活してくる」。
ただし、一段高いレベルに登って戻ってくるわけです。

言葉を換えれば、古い時代すべての文明文化は生命論的だったんですね。

それもう、今日時間がないのであまり詳しく話しませんけれども、例えば、アメリカインディアンの言葉でいい言葉がありますね。

自然とかと土地というものは、子孫から預かったものだと。

で、この価値観というのは見事な価値観であり、非常に生命論的な価値観だと思いますが、我々資本主義の発展の中でとうに忘れた価値観。
こういうものが今、アメリカでも、少しは、やっぱり注目されているわけですね。

つまり、我々日本、この日本の話は、後で十分にやりますので挙げるまではないですけれども、日本にある古い文化というのは、まあ極めて生命的、それは日本だけじゃないです。
ドイツもそうです。
あのマザーグースもそうです
イギリスの場合のね。

やっぱり、そういう素晴らしい歴史の中で、一回それが「機械論パラダイム」というものがバーッと席巻する中で消えていったんですね。

非常に小さなマイノリティになってしまったところが、それがこれから大きく力を持って復活してくるということを申し上げたいんです。

「生命論パラダイム」というのは、特に私の専売特許でもなんでもない。
もともと、人類の一番古い文明、そして価値観のあり方は生命論的であった。

それがなぜか、機械論的な文化文明になってしまって、さらにその後何が起こるかといえば、古く懐かしいものが復活してくる。

生命論的なパラダイムが復活してきます。

ただし一段上がって。

この一段上がってという部分が、今日のテーマでもあるんですけれども、話を少しその前に一つ付け加えておきます。

けれども、なぜ、そもそも「機械論パラダイム」というものが、これほど極めて強力なパラダイムになったのかということです。

例えば、皆さん、今、素晴らしいカメラ、例えば何でも良いんですよ、三次元で映像が撮れるカメラを皆さんにお配りしたとしますよね。
その瞬間に、我々、そういう文明の利器を手にするとどうなるかというと、意識が変わるんですね。

どういう風に変わるかというと、目の前にあるものがすべて被写体に思えるんですね。
「よし、このカメラで、これ三次元撮ってみよう、これも撮ってみよう」

素晴らしいゾーリンゲンの切れ味の良いハサミなんか差し上げるとね、ちょっと切ってみようって、全てが切る対象物に見える。

まあ冗談を言っているように聞こえるかも知れませんけど、科学技術を持つ素晴らしさと怖さというのはその部分にあって、あまりにも科学技術が見事な成功を遂げたことは事実なんです。

古来、医療の世界も挙げるまでもなく、確かに医療の世界でも、抗生物質一つがどれほど多くの人を救ったかって考えれば、科学技術がもたらした成功は、確かに決してあの否定するべきものではないんですね。

ただし、何かがあまりにも成功すると、その成功したそのツールによって、我々の意識が逆作用で全てをそういう風に見始めるんですね。

従って、正確に申し上げると、科学技術の発達によって、我々は非常に大きな恩恵を受けたんです。

それが素晴らしいことであることは事実なんですけれども、素晴らしいあまり、つい無意識に、今度は、科学技術はある種の機械文明ですから、全てを機械のように見たくなるわけです。

そうすると、人間を見るときの冒頭の話ですけど、患者さん診るんでも、まぁ要するに臓器は交換したくなったら交換しよう、遺伝子ここをちょっと変えれば優秀になるじゃないか、このあたかも機械を見るような目でものを見つめ始めるわけです。

そして企業組織についても、先ほどのリエンジニアリング。

このあたりはもういろんなテーマがあるんですけども、私、実は環境分野で学位を与えていただいた人間なんですけれども、私の若い頃
こういう学会の場でですね、まあ多くの人が集まると、どういうキーワードが踊ってたか。

環境制御。

私も、若い頃、それがワクワクしたんですね。
この自然環境というものを、いかに我々に最も望ましい形に制御できるか。

この環境制御、これもあたかも、あの「機械論パラダイム」そのままなんですよ。

この瑞々しい、このエコシステムそのものも制御できる、人間が見事に制御できるんだと、こう考えてしまう。

カニズムを明確に解き明かして、それをコンピューターにシミュレーションして、まあ恥ずかしながら私も若い頃そういうコンピューターシミュレーションを随分やりました。

コンピューターシミュレーション、最適な環境状態にどうやって持っていけるか制御できるか、こんなことを真剣に考えてた時代があったんですね。
私だけじゃない、多くの学者が。

でも皆さん、あれ何年前ですかね。
アリゾナで、例の biosphere 2ってやりましたよね。

知ってる方は結構いらっしゃると思いますけど、アリゾナに大きくドームを作ってですね、そのドームの中に、外界から完全にシャットアウトして中にすべての生態系の要素を全部入れて、そしてそれをコントロールできるかって実験やったわけです。

まあご存じでしょうけれども、あっさり失敗するわけですね。

もう、炭酸ガスの濃度を一つでも全然コントロールできないんです。

あげくの果てに、もっと怖い話は、あれが失敗したもう一つの理由は、中にそのクルーとして入った人たちも、一年間外出ないという状態なんですけども、もう仲が悪くなってケンカしてしまった。

心の生態系もまたコントロールできないんですよ。

これ冗談言ってるわけじゃなくて、これは地球というものを見るときに、今なぜこれほど世界で戦争が起こりテロが起こり人間同士の争いがまだ続くのか、宗教同士の争いも含めてね。

我々は二つの生態系を目の前にしている。

自然の生態系、そして我々人間同士がつくり出していく心の生態系。

これも生命論的な、ものの見方ですね。

そのことを申し上げると、科学技術、そして「機械論パラダイム」、従って機械的世界観。
ものを見るとすぐ機械のように見つめてしまう。

河合隼雄さんが仰ってましたけれども、我々を、例えば子どもが不登校になる事一つでも、河合さん、いつものようにあの本当に面白おかしい語り口で、かつて対談をした時に仰ってましたけれども、ある親御さんが来られて、うちの子が不登校、まあ登校拒否ですか、昔の言葉で言えば。

「先生、こんだけ科学技術が発達したのに、何か子供をパッと行かせる方法はないんですか?」

皆さん、会場にいらっしゃる皆さんは、これはどれくらい馬鹿げていることがすぐお分かりでしょうけれども、でもこれを今の現代の病であるなんというかって言えば、操作主義ですね。

実は、機械論的なものの見方と操作主義は一対ですから、例えば、企業でも、私、結構あまり好きじゃないことが一つが、モチベーションアップ。

もちろんね、社員がモチベーション高く何か仕事に取り組んでる姿は決して悪いことではないんでしょうけど、それを人事の側で見て、「あ、田中君のモチベーションそろそろ上げなきゃな」。
給料上げたら彼もモチベーション上がるんじゃないかと。
面接したら上がるんじゃないか。

もちろん、面接そのものは、そのような深いレベルの面接ありますから、決して悪いことないんですけど、操作主義的に、「彼の不満全部聞いてやったら、彼、元気になるよ」。

無意識に、我々人間の心に処するのに操作主義に入るんですよ。

これが、私のマネジメント論の根本にある、操作主義に対して非常に批判的なマネジメント論。

実は、私はマネジメントの道を長く歩んだ人間ですけれども、一番役に立ったのは、申し訳ないですけどドラッカーでも誰でもない。

河合隼雄さんの臨床心理学が非常に参考になりましたね。

例えば、部下の話、面接一つやるんでもですね、単にハイハイってね、マニュアル的に、うんうん、なんか不満はあるかって聞いてあげたって、こちらの心の中に、不満を聞いてやれば彼がモチベーション上がるんだなんていう、薄っぺらい操作主義的なものがあったら、全部伝わりますよ。

人間の心って非常に深いものがありますから、全部伝わるんですよ。

ただ、表面で伝わるより心に伝わりますから、「なんか面接してもらった後、あの田中課長、なんか何となくスッキリしないんだよな」っていう風に部下は受け止める。

そういう中で私は非常に参考になったのは、河合隼雄さんの「聞き届け」。

話をしっかりと聞き届けなさい。
心の深いところを受け止めなさい。

今日時間無いんでその話も出来ませんけれども、こういう新しい非常に深いものの見方、捉え方、人間の心一つでも、実は我々「機械論」に染まっていますから、こうすればモチベーション上がるんだ、そうではない。

「我が心は石にあらず」ってね、高橋和巳の昔有名な小説ありましたけれども、本当に我々の心、石ではない。

だとしたら、その心に処するのに、やはり忍び込む機械論、操作主義をどう超えていくか。

そして、「機械論パラダイム」のもう一つの大きな捉え方が、例の要素還元主義ですね。

要素還元主義というのは、わかりやすく言えば、目の前にあるものが、人間だろうが人間の心であろうが生態系であろうが、例えば、企業であろうが市場であろうがコミュニティだろうが、とにかく目の前のものを理解したかったら、小さな要素に分割しなさい。

そして、分割した一つひとつの要素それぞれ詳しく分析して、最後にその知見を足し合わせれば、ほら目の前の対象のその姿がよくわかったじゃないかという、この捉え方ですね。

つまり、要素に還元してそれぞれ分析すれば全体が分かるという、この会場にいらっしゃる方は、それはもうとっくに限界に達していることはおわかりでしょうけれども、未だにこの要素還元主義的な捉え方は、かなりまだ主流です。世の中で。

ただし、この要素還元主義というものが、なぜこの「機械論パラダイム」というものが現代において壁に突き当たってきたのかといえば、まあこれも言うまでもないことですけれども、いくつか例がありますね。

例えば心身症

皆さんの方がお詳しいでしょうけれども、心身症ってね、最初あの痛むんですとか言ってねお腹、なんで会社に行こうと思うとお腹痛むのかって、精密検査やっても体のどこにも肉体的な欠陥はない。
病原菌に侵されてるわけでもない、だけれどもって、こう世界があるわけです。

つまり、わかりやすく言えば、病気ってのは、どこか臓器の異常かなんか最近ヤラれてる何かですよ、調べてみましょう。
全部調べているのに、どこにも問題ない。
けれども、そこに、ある種の病的な障害が生まれてくる。

例えば、こんなことを一つとってみても、要素還元主義がとっくに限界に達していることはわかっているんですね。

例えば、一つの職場がおかしくなったときに、なんか最近この職場の文化おかしいなっていうので、田中君、鈴木君の順番に個別面接して、田中君の心の状態がどうか、鈴木君の心の状態がどうかってことを、分析してみてもわからないですよ。

つまり、集団心理っていうものは、一人ひとりの個人の心の総和ではないんですよね。

おわかりのように、群集心理的なのがあって、わーっ何とかだと言うとね、一人ひとりは非常に理性的な人間でも、思わずわーっとこう巻き込まれる時もありますから。

ですから、群集心理というか人間集団の心、心の生態系そのものは一つひとつの心の総和ではないという当たり前のことですよ。

でも、この世界に踏み込んだ心理学てのは、未だそれほど発達してないですよ。

まぁこんなことを申し上げると、十分お分かりいただいたと思いますが、「機械論パラダイム」というものは、「機械論パラダイム」によって解明できることは、見事にやってこられたと思います。

これは、敬意を込めて申し上げますけれども、先ほどの抗生物質一つでも、科学技術そのものでも、自動車でも地下鉄でも空を飛ぶ飛行機でも、それは素晴らしいことをもたらしているんですけれども、一方で、その機械的な文明が解決できる問題の大半を解決した一方で、それではもう解決できない問題が山積みになっている。

そう、現実、目の当たりにして、我々、改めて生命論的な捉え方が必要だということを、論じてるわけですよ。

ただし、この生命論的な捉え方の必要性は、いわゆるホリスティック・パラダイムという言葉もありますので、実はもう60年代、早く見つめれば50年代頃から出てはきてるんですけれども、ますます今その必要性が高まっているということです。

で、そう申し上げると、そろそろ皆さんの中で一つの疑問が浮かぶ。

まあ、生命論パラダイムの大切さはわかったけれども、いや具体的にそれをどのようにして、具体的に目の前の現実を変えるためのツールとなしえるのかと。

実は、「生命論パラダイム」とかホリスティック・パラダイムというものが批判されてきたのは、一貫してその部分なんです。

理念としてはわかる、ホリスティックに捉えようという理念はわかる、けれども、具体的な方法論がないじゃないか。
これは見事な批判としてあったのです。現代科学の分野から。

ところがですね、やっぱり天の摂理というか、まぁすごいことだなと思いますけれども、その現代科学の中から、この生命論パラダイムを求める動きが出てきたんですね。

それが何かといえば、私がしばらく前に書いた本でもありますけど、この例の複雑系

これ、97年頃に書いた本ですけれども、今までも非常に重要なテーマです。
この複雑系の科学というのが現れてきたわけです。

これ、どういう動きだったかというと、まあちょっとだけ歴史を紐解けば、例の3人のノーベル賞学者、マレー・ゲルマン、ケネス・アロー、フィリップ・アンダーソン、ですか。

この三人が集まって、サンタフェアメリカのサンタフェに研究所を作って、世界中から、若いもういずれノーベル賞を取るかという若手学者を集めて、ほとんど全ての分野が集まっています。

歴史学みたいなところから、コンピューターサイエンスから心理学から、もちろん医学から、全部集まっています。

そして、その複雑系という大きなテーマに取り組んだわけです。

で、この今日も、今日は複雑系の講義をやるわけにもいかないので、もうこれも要点だけ申し上げます。

複雑系、いっぱい本がありますけど、やっぱり本質をちゃんと語ってくれてる本がどうも少ないような気がするんですけれども、本質を本当に端的に言えば、complex system もしくは complexity、複雑系とは何か。

グレゴリー・ベイトソンという文化人類学者の、かつて語った言葉そのままですよ。

「複雑なものには、命が宿る」

若い頃、私、これ、この一言は何言ってるのかと思ったんですけど、後に見事な洞察だなと思いましたけれども、グレゴリー・ベイトソン、さすが20世紀の知の巨人といってもいいんでしょうけれども、この方の洞察は見事だった。

物事が複雑になってくると、あたかも命のようなものが宿るんですよね。

これはどういうことかって、もう少しわかりやすく言えば、企業も市場も社会も、全て複雑になってくると、あたかも生命のような挙動を示し始めるんです。

例えばですね、自己組織化、誰かが上でコントロールしなくても、自然にある秩序が生まれてくる。
創発もそうですね。

それから、生態系が生まれてきます。

これは、例えばマーケットを見てても、今、商品生態系がドンドン生まれてきてますけど、生態系が生まれてくる。
そして、生態系が生まれてくると同時に、進化、エボリューションが起こる。

エボリューションも相互進化、例えば企業と消費者っていうのは相互進化してるんですね。

例えば、消費者の中で、やっぱりグリーンというか環境にやっぱり優しい商品が、というマインドが高まると、企業もそれによって、そういう商品を作る。
企業がそういう商品を作って宣伝すると、消費者の側も意識は変わってくる。
この相互進化が起こりますね、例えばの例ですけど。

つまり、我々に生きているこの世界というのは、最初に申し上げたように、家庭も職場も企業も、そしてコミュニティも社会も、実はその意味において生命的システムなんですね。

ある意味では、元々そうなんですけれども、それがますます生命的システムとしての性質を強めている。

それはなぜか。

やはり、これも1995年、アフター・インターネットの話になるんですけども、インターネット革命が起こって、色んなそのシステムの中での、例えば、職場の中、マーケットの中、社会の中での相互連関性が強まりましたよね。

皆さん、例えば、1日にどれくらいメールをやり取りしてるかって、おわかりのように、一昔前、メールが生まれる前は毎日毎日手紙書くわけにもいかない。
電話かけまくるわけにもいかない。
コストもかかる。

そうすると、お互いの相互連関性っていったら、ある程度限られたんですけど、今はほんとに一瞬にしてある情報をバーンと一万人にでも送れるが故に、お互いの相互連関性、情報連関性が強くなってくる。

システムの複雑性がどんどん強まっている。

これはもう時間がないので、細い話はできませんが、企業でも市場でも社会でも、インターネット革命以前に比べると圧倒的にその相互連関性が強まっているが故に、複雑性が強まっています。

その分、生命的な特徴が強まっている。

そして、先ほど申し上げた、いくつかの例えば生命的なシステムというのは情報が共鳴するんですね。

情報共鳴が起こる、自己組織化が起こる、創発が起こる、生態系が形成される、相互進化が起こる。

そして、もう一つ大切な生命的システムの特徴が、バタフライ効果ですね。

これは、ご存知のように、あの例のカオス理論の中で出てくる、例えば、北京で蝶々が羽ばたくとニューヨークでハリケーンが起こるっていう、あれは冗談を言ってるんじゃなくて、大気のシミュレーションモデルやると、それは本当に明らかな非線形という世界ですから。

数学的に言うと、システム全体の片隅の小さな揺らぎが、全体をガラッと変えてしまうということが起こるんです。

これは、怖いことと素晴らしいことの二つがあります。

怖いことというのは、ご存知のリーマンショックなんかそうですね。

リーマンショックって何かってわかりやすく言うと、アメリカの住宅産業の片隅で、ローンが破綻しただけですよ。

でも、ご存知のように、それが一挙に世界を経済危機に持ち込むわけですね。

これは、今申し上げたバタフライ効果の悪い例です。

素晴らしい例は、例えば、皆さんが毎日毎日使っていらっしゃる、例えばグーグル。

あれは、セルゲイ・ブリンラリー・ペイジという二人の研究者が、もう20年近く前ですかね。
スタンフォード大学の片隅で、この検索エンジンを使って、世界中の情報をオーガナイズしたら、多くの人々のためになるんだって、役に立つんだって。

その当時、私がタイムマシンでその話を聞いても、ちょっと誇大妄想かなと思ったかもしれないぐらいのことですけど、現実にそれが起こったわけ。

この場は、まさにそういう場ですね。
まさに、たった一人のその志が使命感が世界を変えうる、その時代に入っているんですよ。

私の若い頃ってのはベンチャーって考え方はないですから、脱サラ。

で、会社を辞めると、「あいつ脱サラしたよ」って、だいたいその後は、末路が非常に悲惨だみたいな物語として語られる。

寄らば大樹だよ、やっぱり入るなら大企業だよ。
企業も、やっぱり資本の大きい方が強いんだよ。

こういう時代は、とっくに終わってるんですよ。

むしろ、たった一人の個人でも、たった数人のチームでも、このバタフライ効果という、まさに生命的な性質を強めている、この社会でコミュニティで企業で、たった数人でもこの世界を根本から変えていけるという、素晴らしい側面もあるということですね。

これは、「生命論パラダイム」の時代がやってきたことの良き面だと思います。

そのことを申し上げると、もう十分に複雑系の話はおわかりいただいたかと思います。

ドンドン複雑性が強まっている時代なんですけれども、じゃあなぜ現代社会において、この「生命論パラダイム」が求められるのかということについてもお話しましたので、次の問い。

そんだけ、ドンドン生命的なシステムになっていく、企業、市場、社会、職場、コミュニティ、さらには元々人間の心、こういうものに対してどう処したら良いんだと言う。

もちろん、複雑系の、今日はその時間ないですけども、いくつかの手法。
例えば、シミュレーションという技法とか色んな技法があるんですけど、それは今日のテーマから外して、もうひとつ非常に重要な知恵のあり方を申し上げれば、先ほど申し上げた古い文明文化の中にある叡智というのは、まさに生命的なものに処する叡智を教えているんですね。

で、この辺りを、我々が、もうしっかりと、もう一度掴み出してくることが必要であると思います。

で、先ほど申し上げたアメリカインディアンの話は、アメリカのエコロジストの中でもほとんど金科玉条のように語られてますね。

つまり、アメリカインディアンの、古い、その、ものの見方考え方というものが、現代において極めて重要だということが復活してきてる例。

そして、それに学んでアメリカの環境運動を進めていこうという方々も当然いらっしゃるわけですけれども、従って、すべての国にその生命的なシステムに処する知恵は、実はあるんですね。

何か全く新しいことをここで申し上げる必要はないんです。
皆さん、これからは「生命論パラダイム」の時代だから全く新しいこの知恵が必要ですよ、ということは実はないんです。

我々が、やっぱり、あの古く懐かしい大切な価値観というものを、しっかりと見つめ直すということが求められていると思います。

そのことを申し上げて、もう一つだけ付け加えれば、この中身をもう少し後で申し上げますけれども、人類の中で古い文明というものを非常に集約的象徴的に申し上げれば、東洋文明というのはだいたい生命論的なんですね。

元々あの四大文明というのは、全部東洋の方から起こってますから、東洋的な文明っていうのは非常に生命的な思想がずっとある、価値観が。

それが、ご存知のように、文明っていうのがドンドン西に西に向かったんですけど、最初はギリシア辺りに行って、その後ヨーロッパに行って、さらにアメリカに行って、アメリカも東海岸から西海岸に行って、シリコンバレー辺りが今ある意味での文明の中心みたいになってきてますけれども、いずれ、この流れの中で「機械論パラダイム」的なものが非常に広まっていったわけです。

ただし、おそらくこれから起こるのは、先ほどのヘーゲル弁証法の二つ。

古く懐かしいものが、新たな価値を伴って復活する。
もう一つは、対立し競合している者同士は似てくる。

この二つの法則からすると、これから何が起こるのかは非常にはっきりしています。

古く懐かしい東洋文明的なもの、その根本にあった優れた思想は必ず復活していきます。

ただし、同時に対立物の相互浸透が起こりますから、西洋文明の最も優れた部分と融合していきます。

これを、皆さんの身近なテーマで言えば、言うまでもなく西洋医学東洋医学

これ、当然それが起こりますね。
今、統合医学という言い方もするのかもしれませんが、まだ現実にはそれを見事に融合しているとは全く思えないんですけれども、流れとしては、今やっぱり西洋的な医学が限界に達していく中で、東洋医学的なとらえ方。

だけど、西洋医学の場合はスッキリしてるんですね。
なんか調べると精密検査やって、バイ菌にやられてます、抗生物質でもう殺しました。

実は、抗生物質で殺してるから治ってるんじゃなくて、人間の免疫力が最終的な治療に結びついてるんですけど、どうもそこに錯覚が生まれるんですけども、なんか癌になると、あそこ切りましょう、悪い部分切り取れば大丈夫。
そうじゃなくて、癌になる体質というのがあるから癌になっているんで、そこどうなんですか、これ東洋的な捉え方ですね。

ですから、東洋医学の方だと、何か調子悪くても、結構ある意味まどろっこしいこと言われるわけですね。

食生活あらためて、心の置き所をもうちょっとこうね、あんまりストレス持たないようにやって、体操もちゃんとやった方がいいですよとかね。
色んなことを言われるわけです。
体を温めるようにとか。

それは、ある意味まどろっこしい感じがしますけど、実は、根本的に非常に優れた叡智があるんですね。

まあ今日ね、皆さん本当に真剣に聴いていただけるので、時間が無くなるのがなかなか恐ろしいですけれども、でももう時間これでほとんど終わりなんですけれども、もう最後に数分だけちょっと時間を頂いて、この流れの中で最後に申し上げたいこと。

この東洋的な英知というものが復活してくる、しかも西洋的な文明と融合しているということを、一番体現するべき国はどこか。

言うまでもなく日本ですね。

日本というの不思議な国で、東洋的な土壌という意味では、非常に最先端の東洋的な非常に深い、禅の思想一つでも仏教の中で一番深い面がありますけれども、そういう土壌を持ちながら、一方で科学技術の最先端、資本主義も非常に高度に発達している、社会システムも見事。

この国がですね、この西洋的な文明と東洋的な文明の融合というものを、やはり、やっていく一番大切な役割を持ってると思うんですね。

従って、この日本という国が持っている、実は古く懐かしい日本の古くからの叡智が、これからの人類の社会の未来にとって極めて重要な役割をするということ、あと数分だけいただいて申し上げておきたいと思います。

一番目、これから人類の価値観、どう展開していくかといえば、「無限から有限」ですね。

当たり前ですけど、地球環境問題一つでも、これくらいもう有限な地球の中にいるんだということは、みんな骨身に沁みてわかってるんですけど、未だに経済学者は、増収増益から始まってGDPはどこまでも増大していかなきゃいけない、経済成長を無限に求めるという馬鹿げたことをやってますけれども。

この「有限」ということがわかっているのは日本ですね。

おわかりのように、日本というのは元々狭い島国の中で、「有限」の空間、そして資源の中で生きていくという叡智を持っています。
これは、世界に届けていくべき。

元々その根本にある「足るを知る」、こういう思想も日本は素晴らしいものがありますね。

二番目、「不変から無常」へ。

「機械論パラダイム」というのは、常にこの理想的な何かのシステムが無限に続くということを、不変ですね。
変わらないという意味での、不変を求めるんですけれども、日本という国は、むしろドンドン変化するということをしなやかに受け止めて、その変化に適応していくということも知恵を持っている国です。

もう、現実のが先に入ってますから、欧米で、もちろん、ドックイヤーやマウスイヤーという言葉があるように、過去のこの7年の変化が1年で起こる、18年の変化が1年どころかドンドン加速していく。

この変化に対して適応していくには、この日本のような、しなやかな思想というのは求められると思います。

三番目、「対立から包摂」へ。

つまり、対立しているもの、これ今世界中に色々あるんですけれども、どこまでも対立がずっと続く。
例えば、キリスト教イスラム教、色々ロシアとアメリカもそうかもしれません。

その対立に対して、日本という国はどちらかというとこの「和をもって貴しとなす」という国ですから、「包摂」、包み込むという思想がある。

元々、八百万の神ですから、宗教みんなね、皆さん、その禅宗の方と浄土の方が争うことはあんまりないんですね。
ああそうですか、お宅は浄土ですか、うちは禅宗だ、なんてやってる。

お互いに、その価値観を認め合いながら「包摂」していくという文化、これは世界が学ぶべき文化です。

四番目、「征服から自然(じねん)」へ。

日本人っていうのは、未だかつて自然を征服しようなんて思ったことは一度もない国民なんですね。

それは、例えば、共生という言葉も、これ今日時間ないんで一言で。
共生って言葉も、みんな素晴らしいと思っているようですけど、実はまだ中途半端なんですね。

共生っていうのは、リビング・ウィズ・ネイチャーですね。
つまり、自然と人間というものが、共に共存していこうという考え方。

まあ、間違ったこと言ってないですけど、まだそこには対立があるんです。
というか切断があるんです。

ところが日本にはもっとすごい言葉があって、自然(じねん)、自然と書いて自然(じねん)。

これ英語で言えば、リビング・ウィズ・ネイチャーじゃなくて、リビング・アズ・ネイチャーですね。
自ら自然の一部なんだって、この感覚が根本にあるんです。
これは、すごい思想なんです。
これは、いずれ日本という国が世界に届けていくべき素晴らしい思想と思います。

そして最後五番目、「機能から意味」へ

機械論は、言うまでもなく、効率とか機能、機能性っていうものをドンドン問いますから、どれくらい早い、どれくらい大きい、どれくらい価値を生むか、こういうことをずっと言いますけれども、実は生命論的に大切なのは、機能とか効率とかよりも、「意味」ですね。

「意味」をしっかり見つめる。

これは日本人の文化があります。

例えば、苦労一つでも、日本人とは別に苦労ってなんか遠回りだと思ってないんですよ。

「若い頃の苦労は買ってでもせい」と言うし、「艱難辛苦汝を玉にす」という言葉があって、遠回りするように見えて非常にエネルギーを使うことも含めて、「ああ、成長できた」、こういう捉え方をする国民ですね。

そういう意味では、日本人の持つこの「意味」を見つめる力、この「意味」というのは、例えば、インターネットの時代になったらますます重要ですけれども、先日もアメリカのシリコンバレーの方が私に突然メールをいただきましたけど、「ああ、縁だな」、そう受け止めるんですよね。

単に偶然だと思わない。
何か深い意味があってこの方からメールを頂いた。
そこには何かの縁があり、お会いすれば一期一会。

そして、全ての出会いというものを、我々有難い、有難いっていうのは、私はあなたに感謝する thank you という意味ではないですね。

英語にすれば、It is a miracle 、有難い。

「あー、田中さんありがとうございます」って言うのは、こうやって巡り合って、これほど有難い心、その好意を寄せていただく、手伝っていただける、お互いの心が通う、この有難い出来事という、こういう素晴らしい思想が日本はありますね。

もちろん、日本だけが、東洋文明の中心なんだと申し上げるつもりはないです。

ただ、我々は日本に生まれ、そして今、こうして、この日本という国をどう良き国にできるかと思ってここに集っている。

だとすれば、我々一度考えてみるべき。

自分が、この日本という国に生まれたことの「意味」。

それは単なる偶然ではない。

そこには、深い深い「意味」がある。

だとすれば、先ほどのプレゼンでも紹介いただきましたが、私がいつも申し上げる言葉で締めくくり。

我々、使命がある。

使命と書いて、命を使う。

かけがえのない、一回限りの、いずれ終わりがやってくる命。
一回しかない命。

いつ終わりがやってくるか分からない、この命、その命を何に使うのか。

この使命感を持って、自分が生きたことを、生まれたことの「意味」を見つめ、そして、やはり、与えられた人生の中で、世の中を少しでも良きものに、誰かに、この世の中で苦しんでいらっしゃる方に少しでも光を届けよう、その想いを持って生きていくことが使命感かと思います。

今日ここにお集まりの方々、全て素晴らしい使命感を持たれた方ばかりと思います。

その皆さんとのご縁をいただいたこと、改めて感謝を申し上げたいと思います。

そのことを申し上げて、私の話の締めくくり。

ありがとうございました。

文責 五十嵐侑一(ソーシャル・キャリアコンサルタント)

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