萩原朔美:ことばが豊かな街を育む

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ことばが豊かな街を育む

萩原朔美

前橋文学館 館長/多摩美術大学 名誉教授

ことばが豊かな街を育む

萩原です、どうも。(拍手)

今日は先生が多いので、ついでにご相談申し上げたいのですが。私、二つばかり病気が治らないんです。(苦笑)一つは、「年齢同一性障害」と自分で言っているのですけど。私の年齢は70なのですが、自分が年寄りだという感覚が持てないのです。だいたい精神年齢50才ぐらい、という感じで。20代の女性から40代までは射距離で、私のガールフレンドだと思っていますから。もうそれ治らないの。この「年齢同一性障害」はどうしたら解消できるか、というのをぜひ相談……。(苦笑)

もう一つは、「意味という病」が治らないです。人生に意味がないのは百も承知なんだけど、なんでもかんでも「意味」を求めちゃう。なんかこう、作品と出会ったり……。僕は、前橋文学館の館長をやらせていただいて2年目になるのですが、いまだに詩を読むと「この意味分かんないな」って言っちゃうんです。詩に意味はございません。谷川俊太郎さんに言わせると「詩は音楽だ」って言うんで。音楽を聴くときに意味は求めないですよね。「この音楽、何の意味かな」って、そういうの求めない。それなのに、意味を求めちゃうんです。だからこの「意味の病」というのは、ほんとうに治らないんじゃないかと思って、それも相談申し上げたいのですが。

例えば都市などで色彩計画や景観計画というのがあり、自治会や市や公共施設・公共団体がそういうことをやっています。けれども、私はやはり言葉。なんというか街の中の言葉の環境というか、そういうものが実はものすごく人に影響を及ぼすんじゃないか、というふうに思っているのです。

今、前橋の田口の所に廊下のような家を借りて住んでいて。(苦笑)そこから文学館まで歩くのですが、玄関のホールの所に入るとまず最初に「22日、明日は燃えるごみの日だから忘れないように」っていう言葉に出会います。それから歩いていくと、だいたい商品の名前やお店の名前だからほとんどスルーするのですが。

その次、夜の街のところのすごく大きな看板があって。「あなたは今……」なんだったっけ。(苦笑)「あなたは今、ええ、満足してますか」だったかな。「あなたは今、充実」(ポンと両手を打つ)「あなたは今、充実していますか」って書いてあるんです。カクテル持ったお姉さんが、こう写真あって。その前を歩くと、いつも「ああ、俺充実してないなあ」っていう。(苦笑)あなたはいま充実して、ないなあ私は。どうしたら自分は充実するんだろうな、っていうふうに考えるんです。

それで、そのときに自分が暮らしている世田谷の梅丘という所の駅をぱっと降りると。「税金は早く収めましょう」、市民のなんか義務ですとかって書いてある、大っきな文字があるんです。それを見て毎日暮らしているわけです。もう一つは、周り中全部そうなんですけど「不審者進入禁止」。それから犬は散歩するときに、ええとトイレのおしっことか固形物を処理しろ、自分で。ていうのだけ。

それからもう一つは、ちょうど角曲がった所の真ん前に大っきな看板があって「放火されない街づくり」って書いてあるんです。何なんですか、これは。「放火されない街づくり」というのは何だろうな、と僕はいつも思って。(苦笑)なんかだんだん不愉快になってくるんです。「よそ者はこの街に居るな」って、そういう感じなんです。全部進入禁止。「何をやるな」っていう言葉だけしか出会わない。そんな街に暮らしてて、気持ちいいのかなって思うんです。

この前柏崎市の方がここに、前橋に訪ねてらして。彼ら3人が前橋の南口に降りたらば、「水と緑と詩の街」って書いてあったと。実際書いてあるんですけども。それで、彼らはすっごい感動してました。普通のキャッチフレーズで「詩の街」と書いてある所って、ほとんどないと。自分たちは文学愛好家だから、こんな素晴らしい街があるんだって感動してたんです。

で僕呼ばれたんです、柏崎市に。「じゃあどんな言葉が」ってぱっと駅降りたらば、でっかい文字で「水球のまち柏崎」って書いてあるんです。(苦笑)水球の街って言われも気持ちいいかな、って彼らも苦笑してました。そういうような言葉の、非常になんか劣悪な環境に暮らしてるんだなっていうふうに思うんです。

何て言うの、いちばんむかっとしたのは。これは世田谷なんですけど、駅に歩いていく方向の左側に大きな建物があって。そこに大っきな文字で「老人会館」って書いてあるんです、「老人大学」って下へ。老人会……。私70ですが、60いくつのときにそこに行ける何ていうか権利ができたらしいんですけど、誰が行くかと思いましたね。「老人会館」って呼ばれて、私行きますかって。こんな不愉快な建物に私は絶対行かない、っていうふうに区の会議のときに言ったんです。自由に発言していい、って言うから。

おそらくこれは、老人というのをイメージできない人が勝手に「老人会館」ってやって、なんにも傷つかないと思っているんだと。そういうような、言葉に対する無礼さっていうのは何なのかと思ったんですね。で、さんざん文句を言ったらば。2年後ぐらいにその前通りかかったら、削ってありました「老人会館」が。それで、看板の所に「ひだまり友遊会館」てなってたんです。(苦笑)「ひだまり」でもいいかもしれないけど。まあ「老人会館」よりはいいな、っていうふうに思いますが。

だから前橋であろうがどこであろうが、なんかこう豊かな言葉に出会って、その街で暮らしたいんですよね、私は。今いちばん救われるのは神社とか、それからお寺とか教会です。そういう所に、月に一度貼り付けてあるんですよ。それが結構いいんです。このあいだ「人間は満足というものを知らない動物だ」って、上野のお寺に書いてありまして。「そうだよね、俺満足してないよね」と思いながら反省してますけど。

あと、これはネット上のFacebookで出てたんですけど。なんか地方の、前橋もそういう所にあったかな、大っきなポスターが一軒一軒のお店に貼ってあって。漬物屋さんかなんかの広告で、おばさんが自分がそこにモデルです、ってあって。キャッチフレーズが「お客様は神様だって言うけど、うちのお店の常連のお客さんの半分は仏様になった」って書いてあるんです。(苦笑)あたし、もう爆笑して。こういうポスターが貼ってあったら、私はこの漬物屋に行くなと思いました。

それからもう一つは、これもFacebookであったんですけど。なんか言葉が変われば人間の気持ちは変わるな、って思ったんですけど。それはFacebookで紹介されてて、私はそのサイトに入ったんですけど。「てめえこの野郎、ぶっとばすぞ」という言葉を、ていねいな言葉で言い換えてくれって書いてあって。そのていねいな言葉が「快適な空の旅をお楽しみください」って書いてあって。(苦笑)あたしはすんごく「そりゃあそうだよな。お前ねえ、快適な空の旅を……」って言えば、けんかにならないような気がして。

つまり、それほど言葉というのは決定的な影響を及ぼすんじゃないかって思うんです。そうやって考えてみると、なんで街にはこう素晴らしい言葉に出会わないんだろう、っていうふうに思って。だったらば、例えばここの群馬会館の入り口には言葉ないですよね。それから区の所に、世田谷なんですけど、世田谷区は何を望んでるんですか・何が今目標なんですか、っていうことをやってくれと。それから学校は「校是(こうぜ)」っていうものがあるから、私たちはこういう生徒を育てます、っていうぐらいの看板は出しなさいよっていうふうに思うんです。

昔のギリシアだったら、それこそ上に「メメント・モリ(死を想え:ラテン語の警句)」って書いてあったわけじゃないですか。そんな「死を想え」っていう看板を見ながらその建物を通ったら、一体どういう気持になるのか分かりませんけど。少なくとも何かしら主張するものがあったらば、各家々に全部「自分がこういうふうに思う」ということを主張するための言葉というのが、外に飾られるといいなって思います。

今ちょっとたまたま前橋文学館でやらせてもらっていますけど、業者に頼んで壁に一応詩を書いたんですね。で文学館に入ると、否応なく大っきな文字で壁に詩が何枚か書いてあるんです。会議室にも詩を飾りました。それはなんか文学館ていうと、だいだい偉そうなんです。みんなね、あの偉い人たちの大文豪のなんか座ってた机だとか、生原稿だとかって。そんな偉そうなことをやってね、誰も来ないですよっていう。ともかくもう強引に言葉と出会う。言葉と出会うことによって、人は考え方が変わったり。こういうふうな心持ちというのは、自分がこの言葉と出会わなければ絶対この感情は湧き出なかったな、というような言葉ってあると思うんです。

まるで当然のように言葉で考え・言葉で見て・言葉で聞いている、ということを私たちは時に忘れるんです。私たちは、目でなんかものを見ていません。もしかして目でもって見ていると言うんだったらば、世界は違ったように見えると思うんです。音は全部言葉で聞いてますよね。その証拠に「コケコッコー」という言葉があって、その言葉のように私たちは聞いちゃいます。「クックドゥードゥルドゥー」には聞こえない。

それは明らかに言葉が先行して、その言葉によって聞いているから。それはもう当然の話なんですけど。そのような最も重要な言葉というものが、あまりにも何て言うか……。人の心を動かさない言葉ばかりあふれている街というのは、私たちは気持ちいいだろうかというふうに思いました。

それでこれ、ずっと言ってるとたぶんそうなるんじゃないかと思って、常にもうどこでも言ってるんですけど。ともかく各家の玄関には、表札の下に自分は「なんかこういう考え方で生きてるんだ」とかっていう言葉を全部入れてくれ。学校には全部、表にそういうふうな校是(こうぜ)を出してくれ、というふうに言ってるんです。

偶然うちの近くの大学では、図書館の上の大っきなセメントの所に言葉が飾ってありまして。ところがギリシア語なんです。何書いてあるか分かんないんで、聞きに行ったんですけど。そしたら守衛の人が「分からない」って言われて。あの、分からない言葉はいいかもしれないんだけど。なんかこう、そうか人間って本というものとの出会いがこんなに大事なんだ、ということをせめて教えてもらえ……。図書館に貼っていただければ、もっと何ていうか本と出会えると思うんです。会館も含めて、公共施設は全部そう。そういうような言葉の環境というものを、考えたらいいかなという気がします。

今こうやって私、口でしゃべってますけど。声で人に伝えるというのと、印刷物を読むとかこういうスライドでもって読ませる、というのは思考回路が違うんです。声というのは、何て言うかあんまり意味として捉えないんです、声で聞いていると。それで活字で見ていると、もうそれはやはりどうしても意味として捉えるんです。だからそういう意味では、なんか表(おもて)に看板とか文字を表記するということは、こういうふうに考えてくれということを訴えるためには、むしろちょうどいいんじゃないかと。

で、こうやってしゃべるというのは、情緒に訴えるわけだからあんまり意味なんか考えない。もう少しこう、スピリッツの世界に入っていくわけ。だからそれはそれで、人を乗せるためには何て言うかこうやって声でもってやったほうが、むしろ効果的な場合もあるんですけど。街の場合はやはり外側にどうしても印刷が必要なので、そういう住環境を作ってくれればいいなというふうに思います。

私の経験でいうと。言葉って、まあ私は役者をやってたもんですからよく分かるのですが。例えば「今日の月はきれいですね」とかって印刷物にかいてあると、「ああ、月がきれいだ」と言ってんだと思いますけど。役者というのは「今日の月がきれいですね」というふうに印刷されてあれば、それは声に出して読まなきゃいけないから、その場合は全然意味が違ってくるんです。月のことなんて言っていないと分かるんですよ、初めて。「今日の月はうつくしいですね」ということは、実は隣に居る女を口説いているという話なんです。

それが印刷物だと通じないんです。でも初めて声に出すと「え、今日の月はお前、なんかさあ、きれいか?」というふうに読んだら、違う意味になるじゃないですか。それとか表情でもって笑いながら「今日の月はさ」と言えば、違う意味になっちゃう。そういう意味では、泣きながら言ったらまた違う意味になって。

印刷された文字と身体化された文字というのは、決定的に違ってくるということを役者は学んでいるのですが。その意味では、一つの文字に対して一つの意味があり、それは固定されたことじゃない。ということを、なんかこう表現というのは伝えている、と僕たちは思うのですけど。

そういう言葉との出会いというのも、やはり街でなんとかしてもらいたい。街でもって出会えれば、それはまた違うふうな影響を人間の心に及ぼすんじゃないか、というふうに思います。だからデザイン環境や住環境・景観環境というのもいいのですが、ぜひ言葉環境というのを考えていただいて。それでなんかこう人に優しい街づくりができたらな、というふうに僕は思います。

「ふるさと」というのは、土地のことではないと私は思います。「ふるさと」というのは思想です、その地域に住んでいる人たちの考え方。これが「ふるさと」だというふうに思います。そんなことをしゃべりに来ました。ありがとうございました。

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